東京都議会でのセクハラ野次問題について考える 日本における女性という存在  

東京都議会でのセクハラ野次が問題になっています。問題は東京都議会だけではなく、海外まで広がっています。ようやく発言者があらわれ、謝罪をしたとのこと。一連の行動は、当然有権者がみています。彼の議員としての資質はどうか、判断がくだされるでしょう。議員という公的な立場にある人間が、責任を持たずに発言することは許されません。環境大臣の信じられない発言にも通じますが、改めて議員の存在が問われています。

 

この一連の問題で私が感じたのは、社会における潜在的な女性の見方です。あの発言の裏に、「女性は家にいて家庭を守るもの」という価値観があったと私は思います。この価値観は今の日本でも多くの人が持っているものではないでしょうか?過去にも「女性は子どもを産んでいればいい」という趣旨の発言が国会議員からありました。テレビをつければ、女性に料理を作らせて、男性が審査する様子がバラエティー感覚で放送されています。「女性は家庭で男性のために料理をつくっているもの」という価値観の上に成立している番組であることは明らかです。

 

今回の問題を議員の資質の問題で片づけるのでは本質をついているとはいえませえん。この国の女性に対する価値観が旧態依然としていることが、改めて明らかになりました。

 

もちろん、男性と女性に様々な差はあります。差があることは認め、その上で両者がより自分たちらしく暮らせる社会が必要です。ただし、「個人」に焦点をあててしまうのではなく、「社会」に焦点をあてることが必要です。一人では社会生活を営むことはできません。社会の中で、はじめて人間は生きていくことができるのではないでしょうか。